想い出の歌 懐かしの唄
(1) 赤い靴はいてた女の子-野口雨情・作詞/本居長世・作曲
「赤い靴」の女の子は、実在の子どもであったということをご存知でしょうか?
その女の子の名前は、「きみ」。明治35年7月15日、静岡県に生まれています。
母一人、子一人で育ったきみちゃんは、3歳の時、北海道に渡りました。母親の「かよ」が、北海道での開拓事業の仕事をするために、静岡からこの地にはるばるやって来ました。
しかし、かよは、厳しい自然の中で女手一人できみちゃんを育てることがむずかしく、あきらめざるをえませんでした。泣く泣く、きみちゃんは、知人を通して、アメリカ人のヒュエット宣教師に養女として預けられることになりました。
一人になったかよは、ある男性と結婚しました。その彼が働いていた小樽の新聞社で同僚の新聞記者をしていた野口英吉(後の童謡詩人・野口雨情)がいました。
かよは、忘れることのできないきみちゃんのことを、ある日、野口に話をしました。それがきっかけで、有名な「赤い靴」の詩が生まれることになったのです。
しかし、「赤い靴」の詩の内容は、実話ではありません。「異人」さんにつれられて、アメリカに渡ったという、雨情の想像したストーリーでした。(野口雨情自身、2歳になったばかりの実の娘・恒子を亡くしており、生まれてすぐに儚く亡くなった子に対する想いが、童謡の名曲「シャボン玉」になったと言われています)
実は、きみちゃんは養女となって、日本を離れず、宣教師夫婦とともに札幌から東京に移っていました。
しかし、明治41年8月、夫婦がアメリカに帰国するというちょうどその時に、きみちゃんは、運悪く結核にかかってしまいました。この病気は、当時不治の病と言われていて、病人は隔離されてしまうため、一緒に旅をすることができなくなったのです。
優しい宣教師の夫婦は、「良くなったら、アメリカへ来るんだよ」と別れ際、何度も何度もそうきみちゃんに話しかけたとのことでした。
仕方なく、きみちゃんは、東京の麻布にある鳥居坂教会(実在)の永坂孤児院に預けられました。しかし、3年間におよぶ看病の甲斐もなく、明治44年9月15日、9歳でこの世を去っています。(現在の十番稲荷神社が孤児院跡地となります)
このあたりの経緯を、菊地寛氏が『赤い靴はいてた女の子』の中で、5年の歳月を要して調べ上げ、詳しく解説しています。
今、仕事の都合で、東京の郊外から新宿まで出て、そこから品川方面行きのバスに乗り、六本木ヒルズのそばまで通っています。
菊地氏の本を読み、きみちゃんのお墓が、青山墓地にあることが分かりました。職場からはバス停で2停留所目の所です。
時間がある時に、広大な墓地を訪れ、何日間かかけて、そのお墓を探し回りました。ようやく探し当てたそのお墓は、何と、私が毎日乗っていたバスの車窓から見ることができ、公道からわずか数メートル墓地側に入った所という非常に分かりやすい場所にあったのでした。きみちゃんは、バスに乗っている私のことを毎日、見つめていたのかもしれません。
きみちゃんの母親(岩崎かよ)の知人・佐野安吉の娘として養女に出されたのでしょうか。鳥居坂教会の共同墓地の墓誌には、「佐野きみ」とその名が刻されています。
また、奇しくも、野口雨情のお墓は、私の住んでいる小平市にあります。
菊地氏の本を読み、私の住まいと職場を結ぶ線上に、きみちゃんと雨情が眠っていたことを知り、あまりにもの偶然で、思わず鳥肌がたったのを今でも鮮やかに覚えています。
私は、何も知らずに、毎日、雨情が眠る小平霊園を電車の車窓から眺め、きみちゃんが眠る青山墓地をまた同じく、バスの車窓から見ていたのでした。
今風に華やぐ、青山、六本木、麻布界隈・・・。深く心に留めおいてください。童謡史上に残る名曲の秘話が潜んでいることを。(S:記)
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭から 汽船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたび 考える
各地にある「きみちゃん」像